先月の塾だよりの続きとなります(また学校に喧嘩を売ります)。文武両道ができた人もいるじゃないか、あるいは今の総合型選抜や学校推薦型選抜がある入試システムだと文武両道もできるのではないか?との意見があろうかというお話です。これについて私の意見を述べていきたいと思います。
まず、過去に両立できた人がいるという意見ですが、これについて考証したいと思います。
それは、できた人のみを取り上げての結論は正しいのか、ということです。もちろん一般的に言えば両立できたといわれる人もいます。ですが、両立できなかった人はそれより遥かに多く存在しています。ではこの人達は単純に努力が足りなかったのでしょうか?
悲しいかな、人間には「才能の差」が歴然と存在します。今現在小学生のお子さんがメジャーリーガーの大谷君がやってきたのと同じ練習をしたとして将来皆があのような選手になれるのでしょうか?大谷君より時間をかけて練習していた選手もいたでしょうが、その人があのような成績を残せないのはなぜでしょうか?やはりそこには「才能の差」というものの存在を認めざるをえないのです。それを認めないとオリンピックで金メダルを取った人以外は、たとえ銀メダルや銅メダルを取ったとしても「努力が足りない人」と言わざるを得なくなります。それは正しいのでしょか?
じゃあ勉強にだって「才能の差」があるのではないか、と問われるかもしれません。はっきり言ってそれはあります。否定するつもりはありません。ただし、その差は努力によって「ある程度」は補えるものだと考えています。スポーツにおいても同様でしょう。ただその「努力」をどちらにも振り分ける余裕がある才能の持ち主はそう多くはないということです。両立しようとするとどちらも中途半端に終ってしまう、そういう人が大半だと思います。努力によって「ある程度」補った才能の差が今後の人生に生きてくるのは勉強のほうが大きいのではないかと思っています。
さらに言えば文武両道と言いますが、学生生活においては部活動と勉強とさらに「遊び」の「文武遊三道」と言うべきだと思います。文武2つの両立でさえ困難なのに文武遊の3つを三立するのはさらに困難であり、どれか一つを捨てるとなると、部活動にかける時間は個人では減らすことはほぼ不可能だし、遊ぶ時間を削ることをする子も少ないでしょう。となると、削るのは…言わずもがなの結論です。
また、高校の部活動の顧問がよく言われる言葉に「勉強にだって体力が必要だから、まずは部活動で体力を養い、その後その体力を生かしてラストスパートをかければいい」というのがあります。冷静に考えればこの言葉のおかしさに気づきませんか?私だって勉強するには体力が必要だと思っています。でも、その体力が必要であるはずの勉強を続けていればその必要な体力が自ずとついてくるではないでしょうか?体力が必要なことを続けているのに体力がつかない、そんなおかしなことが存在するのでしょうか?ラストスパートだって追われる側が同様にラストスパートをかけてくればそう簡単に追いつくものではありません。勉強に慣れている、勉強の仕方を体得している側がラストスパートをかけてくれば、さらに差をつけられる可能性のほうが高いでしょう。
この仕事を始めた30年ほど前、高校で生徒に配られる「進路のしおり」「進路資料集」にある先輩の体験談に、「高3の夏休みは毎日10時間ほど勉強した!」とあるのを見て、ああこの子はこの勉強量で本気で受験するつもりがあったのだろうか…と考えてしまいました。私は高校生の時、中学でちょっとばかりいい成績だったのを自分の才能によるものだと過信してしまい、入学後に周りの同級生に成績でこてんぱんにやられて才能の無さを痛感しました。その後高2まではズルズルと過ごしてしまい、危機感を抱いた高3では夏休みや冬休みの昼間はかつて旧J町の福祉会館にあった図書室に入り浸って勉強し、帰宅後も勉強を続けました。もちろん平日も家にいるほぼすべての時間を勉強に費やしました。しかしそれでも一旦ついた差を縮めることはできませんでした。同級生たちも同じように勉強をしていたのですから当然の結果です。私がラストスパートはかけて当然、だがそれにより差を縮めるのは困難だと考えるのはこの経験からです。
こういう話題になると気持ちが昂ぶってつい長文になってしまいます。入試システムについてはまた次回に